「実話をもとにした映画」である「ボヘミアン・ラプソディ」。
こうした実話系映画に苦手意識を持っていた僕が、先に書いた映画「ボヘミアン・ラプソディ」の感想レビューのようにのめり込んでしまいました。
なぜ「実話をもとにした映画」(本記事では以下「実話系映画」と呼ぶ)が苦手だと感じるのか。
そして伝記映画にもかかわらず多数の史実の改変がみられる「ボヘミアン・ラプソディ」は、そういったことを越えて幅広い観客に届きやすいのか。
本記事はそれらを個人的に考察した内容です。
「実話系映画が苦手」という問題
「史実に忠実な物語」、「伝記映画」という部類の映画が苦手
僕は「実話系映画」が苦手です。
偏見とかではなく、仮に丁寧に誠実なアプローチで作られた立派な作品は、それ自体は「いい作品だなあ」と思えるのです。
例えば見た作品だと「ドリーム」天才的な数学者キャサリンと、仲の良い同僚で管理職への昇進を願うドロシー、エンジニアを目指すメアリー様々な障害に立ち向かいながら、国家の一大プロジェクトに貢献するために道を切り開いていく物語。
あの高い教育を受けた人たちが集まるNASAでさえ当時は差別が当たり前で、その中で奮闘し活躍した女性を描いた映画。人種問題に関してもしっかりと切りみつつ、ポップな音楽で心地よく見せられました。
テーマが偉人ではないところだと「LION/ライオン 〜25年目のただいま〜」5歳の時にインドで迷子になり、養子としてオーストラリアで育った青年サルーが、Google Earthと出会い、25年ぶりに家を見つけ出したという実話の映画化。
インドの孤児がどのように目にあっているかなどの社会問題の描写や、血縁ではない家族のあり方、自分のルーツについて考えされるいい映画だと思うんです。
頭では、これらの映画的な出来の良さは分かるつもりです。決して貶したりとかしたくはない。
ただこれは完全に個人的な経験なのですが、「LION/ライオン 〜25年目のただいま〜」みた数日後にTV番組「奇跡体験!アンビリーバボー」にて映画宣伝を兼ねた、全く同内容の史実について特集がありまして。
いつもの外国人俳優さんを使った微妙に低クオリティな再現ドラマで、完全に映画と同じ話をなぞるそれを見た時、「はたして実話映画とは、所詮は再現ドラマできてしまうことを、わざわざ高い予算でやっているだけなのか」などとモヤモヤ思うに至り・・・・・・。
実話系映画が苦手な理由を書き出す
さて上記の超個人的理由はともかくとして、「実話系映画」を見る上でノイズになりそうなことをあげてみます。
1.ウソが入っているのでは?
作品テーマの史実に詳しい人なら「ここは実際と違うじゃん!」と確実にノイズになる部分。また詳しくない人にとっても(特に疑心暗鬼な僕のようなタイプは)「このシーンすごい面白いけど、脚色っぽいなあ」などと勝手にのめり込めなくなるスパイラルに。
2.どうせ感動の押し売りでは?
1とも近いけども、違うのは話の向かう先がどこか、というお話。つまり「感動ありき」で作られてないか?ということを考えてしまう。
「沢山のウソ」が散りばめて「泣ける」ように無理くり作られているのでは?
なんて具合に1と2の合わせ技一本で気になって仕方ないことも。ある意味そういうジャンル映画なので「泣ける」という機能が求められているのは分かるんですが。ヒーローにワクワクと冒険(という機能)を求めてマーベル映画に通う奴が何を言っとるんじゃ、と言われそうだけども。
3.エンドロールで本人映像(写真)がでるのが苦手
上述で紹介した2本の映画もそうですけど、「実話系映画」ではある意味「お約束」とも言える要素。
どれだけ内容が見やすく作られていても、そしてのめり込んで感動していたとしても、これが出た瞬間に一気に現実へ引き戻される感じが苦手。せっかくひとつのファンタジー世界(=約2時間の映画世界)へ没入できていたのに、余韻を待たずにこれをやられると・・・・・・。
エンドロールが終わって、お茶を飲んだり一息ついてから「現実世界の本人」に思いを馳せる、そんなマイペースを許してくれない。
「ボヘミアン・ラプソディ」も、”史実とは違う”
では本題の「ボヘミアン・ラプソディ」はどうか。
ここからは本編ストーリーの根幹に関わる完全なネタバレですので、ご注意を。
予防線としてあえて書くと僕は音楽評論家でもなく、細かいことは全部わかるわけではないので、公式のパンフレットやWikiを鵜呑みにして書きます。
・ソロ活動はフレディだけじゃない
フレディのソロ活動がメンバーの軋轢を決定づける描き方の本作。史実ではメンバーのロジャー、ブライアンの二人はソロ活動も行っており、ソロアルバムもリリースされています。
・ライブ・エイドの2ヶ月前には日本で公演をしていた
ライブエイド直前はほぼ活動休止状態だったような描き方でしたが、2ヶ月前の5月には最後の来日公演がありました。もっとも解散直前の仲だったのは本当のよう。
・フレディ・マーキュリーがHIV感染を診断されたのは1987年
本編ラストのライブ・エイドよりも2年後ということになります。メンバーに打ち明けられたのも診断直後ということなので、これを前提にすると今回のお話の構造が大きく揺らいでしまいますね。
この脚色をもって、ダメな映画と言いたいわけじゃない
ここで挙げた例はほんの一部ですし、おそらくキリがないほどに大小の脚色はあると思います。でもそれらをもって、この映画を貶したいとかわけじゃありません。
むしろこの記事では本作の大胆な脚色を「全く正しいアプローチである」と大いに支持したいのです。
その理由を読み解くために、まずはそもそも「ボヘミアン・ラプソディ」とは何か、から始めたいと思います。
楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」の解釈がカギ
そもそも「ボヘミアン・ラプソディ」とは
今でこそこの曲はその高い評価が定まっているものの、リスナーとして出会ったときのその衝撃度は凄まじい。
本作の劇中でロジャーが口走る「ガリレオって誰?」につい笑ってしまうのは、誰しもが最初に聞いたときに思ったことがあるからだろう。(というか、僕は今でもそう思う。)
EMIのオフィスでこの曲のシングルカットを議論していたシーンではレイ・フォスターも強烈に批判していたが、ある意味「まとも」じゃないこの曲への最初の印象を代弁している。
しかし劇中のフレディはこう反論した。
「詞はリスナーのものだ」
聞く側が自由に歌詞を読み込んで、好きなように思いを乗せることができる曲、それこそが「ボヘミアン・ラプソディ」だという。クイーンというバンドのスタイルを端的に説明しているこのシーンこそ、僕は本作「ボヘミアン・ラプソディ」の作り手が発する所信表明であり、本質ではないかと思う。
観客と呼応して初めて完成する「クイーン」
先のオフィスシーンのやりとりの直後は、レイ・フォスターの言う通り実際に批評家から「深刻ぶった」「平均的」などと評されたことと、「ボヘミアン・ラプソディ」の演奏されるライブでのファンの熱狂ぶりが対比させるように続く。
クイーンの曲は積極的に読み込んだり、参加するファンがいてこそ完成するバンドであることが明示されている。逆に、まっとうな定規をあてられると必ずケチがつくクイーンやフレディもまた、愛してくれるファンを必要とすることがわかる。
この「クイーン、およびフレディが軽んじられたり居場所をなくす ⇒ ファンの熱狂が救う」という関係性は、「フレディのボーカルデビュー」から「ライヴ・エイド」までこの映画で終始みられる展開だ。
楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」歩んできた特性をおさえつつ、映画として一貫した演出がなされており、全く正しいアプローチだと思う。
実話系映画のその先へ行くために・・・
しかしこれだけでは単なる「丁寧な映画作品」だし、
「クイーンってすごかったんでスねー」
「当時見れた人はヨカッタネー」
「いっぱい泣けましたー(><)」
・・・あたりで終わっていたはず。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」はここからが凄かった!
フレディ&クイーンと観客の呼応関係は映画内世界だけにとどまらず、「僕ら観客との呼応」まで射程に入っていたのだった!
メタな「僕たち観客」と呼応した!
セリフじゃなく歌でアクションする
本作は主にフレディー・マーキュリーを主人公とした物語として語られる。そして多くの映画と同じように「彼の葛藤と、それを打破する何らかのアクション」が主軸となって展開されている。
本作で重要なのはその「葛藤とアクション」が言葉少なに描かれ、簡単に心情を吐露したり説明するセリフがとても少ないことだ。それどころか主人公のフレディは何かの問題に直面したり悩みに抑圧された状態になると、押し黙ってみるか、思っていることとは別のことをうそぶくことが殆どだ。
スクリーンでみる僕ら観客が彼の葛藤を理解する術は唯一つ、劇中で挿入されるクイーンの楽曲であり、そこに散りばめられた詩から想像するしかない。これが映画の作りとしてシンプルで、とても力強いものになっている。ミュージカル映画的と言ってもいい。
ミュージカル映画的な「アクション」
実際に本編では、フレディの抱える真の感情を爆発させるのはライブシーンや挿入される歌の中でのみだ。そしてそういったシーンが来るたびに、彼とクイーンの物語が大きく動きを見せるキッカケを作っている。
例をあげると先の楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」完成時の一連の流れしかり。
破滅へ向かっていくことをやめられないフレディーを描写する「地獄へ道連れ(Another One Bites The Dust)」しかり。
そして個人的に好きなのは「ラブ・オブ・マイライフ(Love of My Life)」の使い方だ。
バイセクシュアルであることを妻のメアリーに告げるシーン。妻に対峙するフレディ自身が口にするセリフより先に、テレビから聞こえる「ラブ・オブ・マイライフ」を歌う自身の歌声とリオの観客による大合唱が、メアリーに何かを察知させた。とても重層的で、映画でしかできないシーンだと思う。
感動を押し売られることなどない、
僕らがクイーンに感動を求めるのだから
こうしたミュージカル的な曲の引用とアクションだから、「ボヘミアン・ラプソディ」が凄いのではない。「クイーンの楽曲」をこういった演出で繰り返し、丹念に丁寧に展開するからこそあまりにも強いのだ。
「僕ら観客が何かを読み取らないといけない、もしくはつい深読みしたくなるような歌詞になっているクイーンの楽曲」と「徹頭徹尾にミュージカル映画的なアクション演出」という2つが合わさることで、この映画は異様なアイデンティを獲得していると僕は思う。
クイーンの曲の本質を定義し、その力を最大限に引き出せる演出をし、映画を見る僕たち観客が積極的に想像する余地を与える。これを一本の映画作品に仕立て上げた。
これは「ボヘミアン・ラプソディという壮大な歌の映画化」としか言いようがない。
感動は押し売られるどころか、こちらから求めにさえ行ってしまう。そんな構造ができあがってしまっている。
賛否わかれる「1985年」の脚色
僕は「ボヘミアン・ラプソディ」の脚色を支持する
ここまで説明してきた上で、映画のラスト「ライヴ・エイド」周りの脚色についても触れたい。
最初に例をあげた「エイズの診断時期」や、エイズに感染しながらもフレディに最後までそのことを告げずに連れ添った友人ジム・ハットン周りなど、「ライヴ・エイド」で映画を終わらせるためにした改変が多いのは事実。
でも僕は、この改変を絶対的に支持する。
なぜならこの2018年では、「すでに他界した」「エイズで亡くなった」というフレディ・マーキュリーの圧倒的事実からは逃れられないし、「フレディという偉人への切なさに思いを馳せる」という機能が「ボヘミアン・ラプソディ」には備わっているからだ。
フレディがいない世界で生きてきた世代
30代の僕にとって、物心がついたときにはすでにフレディはこの世にいなかった。「すでに他界した」ことを理解しながらクイーンの楽曲に触れるしかなかった。
小学生のときに買ってもらったコンピレーション・アルバムで「伝説のチャンピオン(We Are The Champions)」に初めて触れ、中学のときに「ジュエルズ」でクイーンの曲のバリエーションの豊富さをようやく知った。大学のころに出来始めた動画投稿サイトで、「ライヴ・エイド」のパフォーマンスを目撃し、同時にもう二度と「あの時のクイーン」を見れないことにどうしようもなく切なくなった。
上記はあくまで個人的な体験だけども、アラサー世代以下の年代になれば、あるいはこの先の未来においては「アーカイブでしかクイーンを知らない世代」のほうがずっと多くなる。フレディについて常に死のイメージが付随した上で、クイーンに触れる世代が増えていくのは当然だ。
今となっては「死の予感のないライヴ・エイド」のほうが、よほど不自然ではないだろうか。
フレディの死に思いを馳せる、始まりは1991年
このことはなにも、2000年代以降の話だけじゃない。
本編のエンドロールで紹介されるように、1991年にフレディ・マーキュリーの死から2週間後に「ボヘミアン・ラプソディ」が再リリースされ、UKチャートで再び1位を獲得した。
彼の代表作だからという理由だけじゃなく、その歌の世界観や歌詞に彼の人生を重ねた人も多かったのではと僕は思う。
時を越えて、初リリースから16年だろうと、43年だろうと、僕らは楽曲としての「ボヘミアン・ラプソディ」からフレディの死を予感せざるを得ない。
だから映画「ボヘミアン・ラプソディ」のアプローチは正しい。この映画が楽曲「ボヘミアン・ラプソディ」の本質を捉えている限り、このメタな特性まで付随させるのは当然だ。
時系列がおかしくとも、今回のような脚色をするのは一本の映画作品として、僕は納得しかない。
最後に
何はともかく風は吹く
最後に一つだけ正直に言うと、エンドロール開始時の写真や、その後のフレディを綴る文章はやっぱり苦手でした。理由は前述の通り。
でもその後の「Don’t Stop Me Now」と「Show Must Go On」がエンドロールの最後まで飾り立てる流れは、こうしてタイトルの字面を並べるだけでも、胸がキュッとなる演出だ。問答無用の説得力で苦手意識も吹き飛ばされてしまった。
エンドロールも終わって鑑賞後に立ちのぼるのは、やはりもうこの歌声は現実に存在しないという切なさだし、
「Is This The Real Life. Is this Just Fantasy~」
から始まるあの曲に、また思いを馳せて余韻に浸るしかなかった。
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