原題:Fantastic Beasts: The Crimes of Grindelwald
上映時間:134分
監督:デビッド・イェーツ
キャスト:エディ・レッドメイン、キャサリン・ウォーターストン
ダン・フォグラー、アリソン・スドル、ジュード・ロウ
エズラ・ミラー、ジョニー・デップ
あらすじ:アメリカからイギリスに戻ってきたニュートは、アメリカ合衆国魔法議会が捕らえた強大な魔法使いグリンデルバルドが逃げ出したことを知る。恩師のダンブルドアから特命を受け、パリに向かったニュートは、仲間の魔法生物たちとともにグリンデンバルドの行方を追う。
引用:https://eiga.com/movie/88154/
11月24日 なんばパークスシネマにて鑑賞 [ 45/100点 ]
5部作の第2作目「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」。
私自身は中学生頃に「アズカバンの囚人」まで読了しましたが、その後脱落。「ハリーポッターシリーズ」の映画はすべて未見。前作の「魔法使いの旅」は公開当時と、今回の2作目鑑賞前日にレンタルで見直しました。
前作「魔法使いの旅」がハリーポッターシリーズをそれほど詳しくなくとも見れる快作だったことに比べると、本作はその面白かった部分を大きく後退させてしまった残念な出来だと思いました。
この記事では、まず1作目「魔法使いの旅」の何が面白かったのか、そして物語上で何を成した映画だったのか整理します。
そしてその上で、2作目「黒い魔法使いの誕生」の問題点に触れていきます。
本記事にはネタバレが含まれますのでご注意ください。
1作目「魔法使いの旅」は何が面白かったのか
ニュートの成長を軸にしたお話だった
1作目のおさらいはもう一人の管理人hanayaが当ブログで詳しく扱っているのですが、改めて簡単に、そして私なりにおさらいしていきます。
まずどんなお話だったのか、ざっくり一言で表すと
「魔法動物にしか愛着のない主人公ニュートが、新天地アメリカで事件に巻き込まれる(or巻き起こす)。 魔法動物の知識と経験で困難に対処し、それらを通じて仲間と友情を育み、やがて事件(オブスキュラスの暴走)を解決する」
とこんなところだと思います。
映画のタイトルに「ファンタスティック・ビースト」とある割には、実は魔法動物を中心にしたお話でないところがミソ(hanayaも同様に指摘しています)。
では「メインストーリーに全く魔法動物が関係していない」かというと、これはちょっと違ってかろうじて関係はしています。
魔法動物は交流の架け橋
魔法動物たちはニュートが他者(=ティナとクイニー、そしてジェイコブ)との絆を結ぶ架け橋となっていることが重要なのです。
例えば、銀行でニフラーが脱走する場面ではジェイコブとの出会い。魔法動物に噛まれたジェイコブをかくまうために、ゴールドスタイン姉妹に招かれる。セントラルパークでみせる「ニュート&ジェイコブ」コンビの捕獲劇や、死刑寸前のところを魔法動物で切り抜けるなどなど。
これらの事件に遭遇するたびに、ニュートは魔法動物を扱う真のプロとしての振る舞いをみせます。魔法動物の扱いに長けていることだけでなく、真摯に偏りなく接する彼の態度が不器用なヒーローとしての魅力を発揮するのです。彼の仲間や、われわれ観客がそれを目撃することで心がうたれるわけです。
またこの真摯な態度があるからこそ「オブスキュラス」に誰よりも真面目に対峙し、それゆえに悪役グリンデルバルドに勝つという物語構造も成り立っていました。
成長を描き、別れによって際立たせた
劇中でもこのような魔法動物を扱うイベントが起きるたびに、仲間との関係性が一歩ずつ進んでいきます。1作目の最も重要な点は「コミュニケーション下手のニュートが、魔法動物を通して仲間と絆を結び、それ故に勝つ」ことだったのです。
これを裏付けるようにエンディングでは、主に仲間との別れを描く終わり方でした。忘却の雨で記憶をなくすジェイコブとの別れ、出航前のティナとのやりとりなどがラストに来ているのはこのためでしょう。
別れがあるからこそ、1作目でのニュートの成長が際立つ演出です。個人的にこのビターで甘酸っぱい終わりがこの映画のハイライトだとも感じています。このあとの彼らの進展を期待せずにはいられない素晴らしい幕引きでした。
基本に忠実だが、粗いお話の見せ方
・・・とここまでストーリーについて整理して書いてきましたが、そこそこ粗さが目立つ作りだったのは確かです。なかなか忖度しないとお話の筋が見えない不親切な設計。
なぜならお話の基本軸はニュートを中心としているのに、劇中では何かにつけクリーデンス側の「虐待問題」や「オブスキュラスは誰なのか」といったシーンが挿入されてしまうことで、「今ひとつお話にのれない」「ニュートが主人公ぽく見えない」というまずい効果をきたしていました。
基本軸がニュートのお話であるにもかかわらず、全く関係のないこれらのシーンを挟んでも、お話は加速しない。あろうことか最終盤でオブスキュラスが暴走する騒ぎをたまたま見つけるという取ってつけた展開でした。
様々なキャラクターの視点を見せる割に、なかなか本筋とどう関係があるのかわからないままお話を進めて、ギリギリのところで唐突な方向転換をさせる強烈なストーリー構成のクセがありました。
魔法世界を信じさせる俳優力とアニメーション
上記のようなストーリー構成や見せ方に問題はあったにせよ、世界観のディテールは素晴らしいものでした。魔法動物のCGアニメーションの可愛さはもちろんですが、それを確かにさせた俳優の演技力は主役のエディ・レッドメインを筆頭に素晴らしいの一言です。
実際には人形や、場合によっては何もない場所でパントマイム的に演技をした彼らの演技力が、この映画を見ていられる魅力になっていました。
魔法動物だけでなく、特にメイン4人の若干それぞれがポンコツな欠点を持ちながらも、だんだんと絆を深めることでチームとなっていく過程はとてもワクワクしてしまう。
セントラルパークでの動物捕獲などは若干だらだらと長いシーンではあったものの、ニュートとジェイコブの凸凹コンビぶりでガッチリと話のテンポをアシストしていました。
1作目「魔法使いの旅」のまとめ
私個人の考えですが、「魔法使いの旅」はどんな映画だったかまとめます。
- ニュートの人間的成長を描いた(実は)シンプルなお話
- 次を期待せずにいられない幕引き
- 俳優同士の生み出すハーモニーが楽しい
- 魔法動物かわいい!(と信じさせてくれるCGと俳優の演技)
- 主人公外の視点を何度も映すものの、主人公になかなか関与しない
- 収拾がつかなくなるとキャラクターを無理に動かす脚本のクセ
ややお話の進行が分かりづらい印象ながらも、その他の多くの魅力が補って余りある素晴らしい映画だったと思います。個人的にも大好きな映画でした。
前置きが長くなりましたが、この1作目を受けての「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」について述べていきます。
「黒い魔法使いの誕生」は前作を蔑ろにした
魅力を半減させ、前作の弱点を際立たせた不可解な作品
さきに結論を述べますと、私はこの2作目「黒い魔法使いの誕生」を「前作の面白さを半減させた残念な続編作品」だと考えます。
世界で唯一の世界観を持つファンタジーとしての魅力が余りあり、起用する俳優陣にCGのパワーも圧倒的。前作ではこれらの魅力が、欠点をしっかり補う映画としての完成形がありました。
ところが「ファンタスティック・ビースト」を長大なお話にしたいがための、あまりにも間違ったお話の構成、見せ方の圧倒的な下手さ加減が際立ちました。前作から危うかったこれらの欠点を自ら露わにしてしまった。
そうして残るのは「ハリー・ポッターサーガの答え合わせをする以外に楽しみのない、一本の映画としては面白くない作品」という感想だけでした。
なぜ素晴らしい幕引きを「引き継がない」のか
まずこの映画のスタートからして、脚本の都合が見えてしまう点が多すぎます。まるでシーズンの長引いた海外ドラマが行う「リセットのための新シーズン第一話」を見ているかのようでした。
とにかく1作目で為したことを無下にしすぎです。
開幕早々にせっかく捕まえたグリンデルバルドが逃亡
まずグリンデルバルドの逃亡はそこまで悪くはなかったです。どうせグリンデルバルドが逃げるのは分かっているし、とっとと逃げて悪いことをしてもらう割り切りは良かった。
ただ、あまりにアッサリとしすぎではないでしょうか。魔法省は(このあとも出てくるパリも含め)かなり間抜けに見えてならない。前作でニュートとティナでさえ脱走できたのなら当然なのかもしれませんが・・・。
見逃したクリーデンスはあっさり魔法省に生存を把握されている
クリーデンスが生きていることが早々に明らかになるのも「ニュートをパリに向かわせるため」が見えすぎです。彼は前作でニュートの慈悲でもって見逃してもらえた上に、その後に生き長らえたのかも分からない演出で終えていました。そのラストを簡単に捨ててしまう今回のスタートは、残念というよりもったいない。
これによってもたらされたのは「ニュートがクリーデンスを見つけ出す」というお話の基本軸と推進力ではなく、またも主人公に絡むことのないクリーデンスのシーンを随所に挟み込むという「前作と同じですっげー話分かりづらいよ!」という残念な効果でした。
「ニュートとティナのこじれ」・・・コレ要らないよね?
いい大人がまるで少年少女の恋愛のような、なんとも甘酸っぱい終わり方をした前作。それをかなりしょうもない「誤解」ひとつで一度関係を後退させてお話がスタートしました。
魔法省の指示では動かないニュートに、パリへ向かうための動機を強化させるためとして、よしんばアリとしましょう。
ですが最終的には単にセリフで説明しただけで仲直り。その後は物語を終わらせるために必死の展開が続き、ティナとの関係は有機的にメインのお話と絡むことはありませんでした。
最終局面で大切な人々をメインキャラクターから奪い取った本作の悪役グリンデルバルド。どうせならティナもまたグリンデルバルドに揺さぶられるなど、しっかりと関係性をストーリーに組み込んでこそ、序盤の種まきは活きるはずです。
さらに言うと、単にニュートをパリに行かせたいのなら「闇祓いに復職したティナがパリにいる」とクイニーが伝えればよいのではないか。すでに魔法省からパリに行く小さな動機を持つニュート、彼ならば危険を犯してでもティナを必死に探しに行くような真摯な人として、前作で描いたのではないのか。
この「ニュートとティナのこじれ」は感動げなことを終盤にやりたいだけにしか見えませんでした。
ジェイコブの記憶はあっさり回復
「記憶が完全に消えたのか、あいまい」というほろ苦い前作のラストのラスト!
これもまたいい加減に「記憶は元通りになりました」で済ませてしまう。筋が通らない上に「感動と余韻を返せ!」という苛立ちすらありました。
前作でも「ニュートとジェイコブ」の凸凹コンビぶりは、かのイギリスのヒーロー「ホームズとワトソン」のように互いを補う見てて心地よいシーンの連続でした。この再登板は誰でも望みますし、私も望みました。
でも、こんな安直な形でいいのか。
前作で彼らは最終的に「別れることを決意した」ということをお忘れではないのか。まるで忘却の雨へ自らすすんで浴びたジェイコブとそれを見送った仲間たちの、あの名シーンを、無かったことにしたいかのよう。
あの時のジェイコブやニュートの決意を引き継いで物語を作るのが筋だろうし、続編映画として非常に見苦しい。それに「名コンビ復活」までいま少し引っ張れば、もっと感動的な再開シーンにも出来たはずだ。
振り出しに戻って再スタート
これらのことをまとめると、
「前作で築き上げたニュートの成長と別れの物語を、完全にリセットしてしまった」
ということになる。
私はまだシリーズ2作目の本作において「こうもキャラの関係性をぞんざいに扱う」という不誠実さに、不安でしかありません。この不安は「黒い魔法使いの誕生」を見始めた序盤から、そして見終わった今もずっと抱くことになってしまいました。
そして露わになり、強化されたファンタビの欠点
決定的なストーリーの分かりづらさ
この2作目はとにかくお話の分かりづらさ、観客に頭のフル回転を強いるという部分が悪目立ちしています。
その理由は簡単。
上述した1作目の欠点にもあげた「主人公に一切絡まないクリーデンスの葛藤と物語」が増えたからです。
どう増えたか。
あろうことか人数を増やしてしまった。
クリーデンス、合流前のティナ、グリンデルバルド、離脱したクイニー、ダンブルドア、リタ、学園時代の回想などなど・・・。
1作目の時点で無理くりに俳優やCGと美術でカバーしてもらえたストーリーテリングの負担を、自ら手に負えないところまで増やしてしまった。
加えて今回はニュートを中心とした物語構成でもない。そのため魔法動物を扱う必要性も無くなったために、その出番はかなり限定的になりました。
「物語上必要ないのだから今回は出番が少なくていい」という論理は、確かに立ちます。
でも前作の粗を覆い隠してくれた主人公と魔法動物の対峙を減らすことが、この2作目を何か面白くしてくれたのだろうか。
本作の表現したかった「物語の意図」とは
前作の魅力を削ってまで、今作で描きたかったのは果たして何だったのか。
原題の「The Crimes of Grindelwald」とレストレンジ霊廟でのシーンを照らし合わせて考えれば、これは「グリンデルバルドが出生という呪いに苦しむ3人を罠にはめ、彼らの葛藤と決断を描く話」だったと捉えられるかと思います。
すなわちその3人とは、クリーデンス、クイニー、リタ・レストレンジです。
クリーデンスは引き止められるほどの人格者なのか?
クリーデンスについて最も引っかかるのは、彼がグリンデルバルドに付くことを決めた時にナギニが引き止めたこと。ナギニは「出生だけがあなたではない」という。
果たしてそうなのか?
実は劇中で彼がどういう人格の持ち主なのか、描写があまりに少なすぎるのです。彼がどういうことに優しさを抱くのか、善の心があるのか、ということを全く自発的に行動で示さない。
唯一あるとすればナギニとサーカスから逃走した時です。しかし、あらかじめ決めた逃走計画通りだっただけとも取れるので、ナギニを助けようとしてのことなのかよくわからない。
もしクリーデンスが誰かに引き止められるほどの人間であるなら、何か利他的な行動を自分から起こし、人助け、あるいはどういう状況でもナギニだけは必ず守るなど、アクションを起こさないといけない。
そういうアクションをしていた上で、それでもグリンデルバルドに付く決意してこそ、ナギニの悲痛さが演出できたはずです。
そこそこの尺をさかれたクリーデンスの描写はたいした掘り下げもされずに、すんなりと闇の道へ入ってしまった。次回作のために。
クイニーはこんなにヒステリックな女性だったか
「衝撃的な展開」だったクイニーはどうか。
- 序盤のジェイコブとの離別
- 中盤での孤独とグリンデルバルドによる揺さぶり
- 終盤にグリンデルバルドに付く決意する
一見すると順当な手順を踏んで作劇されているようにも見えます。
ただ最悪なのは序盤と終盤の両方において、ジェイコブから離れる理由が「クレイジー」と言われたからというキッケケでした。おそらくウマイ対比を見せたかったのだろうけど、使い方が間違っています。
2度同じ言葉を使うなら、最初の一度目は「クレイジー」と言われても和解するなど、最初は離れない選択をしておくべきです。
「マグルと結婚できない問題」に対してヒステリックになったとしても、もう少し理知的な選択が取れる人だということを最初に示しておくべきでした。少なくとも前作でのクイニーはもっと機転の回る女性として描かれていたはず。
誰がどう見たって反社会的勢力である側に、理解した上で付くという最終選択。「クレイジー」と2度言われたから行きました、ではあまりに思慮がなさすぎます。
ただでさえヒステリックな描写が多い今回のクイニーが可哀相でならない。
今作だけを見れば、本当にただの「クレイジー」なのだから。
リタはただのミスリード要員扱い
さて、おそらく最も尺が長くニュートとの絡みも多かったリタはどうだろうか。
結論から言うと動機の変遷などが長い時間で描けているので、比較的不自然のないキャラででした。ただ、作り手がミスリードを誘発するための都合よく使われすぎていた。
「クリーデンスに家族はいるのか」「リタの隠された弟とは」という謎を提示したリタのエピソード。この提示された謎は、本編のストーリーを引っ張る役割として確かな効果がありました。
(ただし、その手法自体は前作の使いまわしです。「グリンデルバルドによる情報(オブスキュラスの憑いた子は10歳以下しかいない)」と「孤児院の妹」を使ったミスリードと代わりありません。しかも引っ張った謎はユスフ・カーマと共にセリフだけでペラペラとリタが説明するので面白みに欠ける)
上述の二人に比べるとラストもまだよかった。家系の闇に押しつぶされて、弟を取り替えて死なせてしまう罪を犯し、その傷を癒やしたニュートとの学生時代。最終的にこれがラストでは闇に堕ちず、グリンデルバルドに奇襲を仕掛ける動機になったことまで理屈として納得できる内容でした。
劇中ではとにかく思い出したかのように細切れのリタ・エピソードが入るので、話を追うことに疲れはするものの納得はいく。しかしその結果が奇襲の末に死ぬというのは・・・。
「リタが本当に裏切るのかどうか」をやけに引っ張る演出も、もはや3人目になると白々しい印象もありました。
一番しっかりと描かれたキャラが「観客の予想を裏切るストーリーにしたかった」ために作られたのだとしたら悲劇という他ありません。
作り手の意図通りに描けていたとは思えない
最低限リタのエピソード程度のことまでしっかり描いたサブストーリーを、今回ならば3人を同時に本編で描ききってこそ「The Crimes of Grindelwald」だったのではないでしょうか。
本編の「黒い魔法使いの誕生」でそれが成されたとは到底思えない。逆にこの無理を強いたせいで映画としての魅力も半減させてしまっているし、むしろ欠点を増長させてしまいました。
まとめ
出来、不出来はあってもいい
ここまで「黒い魔法使いの誕生」の作りの粗い部分をあげてきましたが、一応は俳優陣の実力もふんだんなCGアニメも健在で、ルックとしては見れる作りだとは思います。
長いシリーズの中にあってはお話の出来、不出来はあって当然です。挑戦的なストーリーテリングをした結果が微妙な結末になったとしても、挑戦自体を褒めることはできます。
なによりハリーポッターとのつながりも小出しながら随所に見られること。あのテーマと共にホグワーツが堂々と再登場した時も、ハリーポッター弱者ながら思わず嬉しくなるポイントでした。
でも私がここで言いたいのはそういう作品自体の出来、不出来、言い換えると「ストーリー構造や演出面」をあげつらうことではありません。
再三になりますが「前作で成したことを引き継がずに作った上に、前作の反省をまるで出来てないその姿勢」に失望したということを言いたいのです。
このシリーズの行く末を信用できない行為をした
「前作で成したことの上で続きを作らない」とは何を意味するのか
具体的に例をあげると、それは私達が「黒い魔法使いの誕生」で見届けた結果も、この映画のつくり手たちはいつでも無かったことにするかもしれないということです。
あくまでも私個人の所感ですが、これは本当に続編映画を見ている時に、不快に思う瞬間なのです。
今作のラストでニフラーがスリとった「血の契約」も、次作の開始5分ではまたグリンデルバルドの手に渡るかもしれない、と身構える必要がでてきます。
あるいはクリーデンスの出生がダンブルドアの血脈だったという話も、開始早々にウソでしたと路線変更するかもしれない。
安直にジェイコブから離れたクイニーも、やはり安直な演出で帰ってくるのだろう。そんなことを気にしなければならない。
シリーズ物の特にSFやファンタジーでは、観客がその世界をどれだけ信じられるかが重要だと思うのです。
キャラの関係性や設定を毎作ごとに都合よくリセットしては、私達はそのシリーズを信用など出来ないはずです。「スター・ウォーズ(特に最後のジェダイ)」しかり、奇しくもジョニー・デップ主演「パイレーツ・オブ・カリビアン」のここ数作もしかり。
長く続いたシリーズならまだわかります。しかし2作目そうそうにこのような乱暴な作劇を良しとして、はたして今後6年でまともな3作品を期待できるのでしょうか。
私は前作が気に入っていた分、今回の仕打ちを許せません。
映画脚本家J・K・ローリングと監督デビッド・イェーツのその手腕以前に、その不誠実な姿勢を疑ってしまいます。
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