映画の撮影監督をされている中澤正行さん著【「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析】を読了しました。
ざっくりと要点を押さえると
- なぜ我々観客は「いつのまにか」映画に没入するのか?を解き明かす
- 映画を観賞する上での「観客の視点」「主人公の視点」が重要となる
- 観客と主人公、二つの視点が重なりあう時、我々は没入する
- 二つの視点を重ねるためには「撮り方」「主人公の追い込み」「サスペンスの構築」がキーになる
とこのようなことがが語られていましたよ!
映画の没入感に関するロジックについて明らかにしていく本書【「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析】は、映画が好きな人にはおすすめの一冊です。
以下、その内容の一部を私なりの感想と解釈を交えて紹介します。
映画を見るという行為から始まる没入感への道
まず本書の書きはじめというのが映画内部の物語構造だとか、撮影技巧のお話ではなく、そもそも映画館で映画を見るって行為は何だろうね?という地点からスタートしているのが大変興味深いです。
2時間座席に縛り付けられていることを忘れ、ありもしないスクリーンの世界に没入するこの不思議な現象を、まず物理的な観客とスクリーンの距離から説明されていきます。
これが述べられている第1章「感情移入と臨場感」では音響や4Dについて触れられているのですが、ここが目から鱗でした。
映画内部にいるかのような過剰な音響演出(主人公が後ろから声をかけられると、映画館の後ろから声が聞こえる)や4Dの座席が映画に合わせて揺れるなど、一見すると没入感を高めてくれる要素がかえって「いま座席に座って映画を見ている現実の私」を意識させてしまい、没入を削ぐという指摘です。
「特別な音響環境に座っている私」
「3Dの飛び出す映像にびっくりする現実の私」
「4Dの座席で揺らされている私」
「4Dのミストでメガネを濡らされて鑑賞中に拭わないといけない私(※個人的実体験)」
これらを意識した途端に、スクリーンの中で展開されている物語から意識が離れてしまうのです。
優れた映画館の設備が必ずしも夢中になれる要因ではなく、むしろ静かに2Dのスクリーンを見るときのほうが没入(または集中)できるのは、3Dや4Dなどで映画をご覧になったことがある方なら経験則でご存知なはず。
「見ているしかない」の重ね合わせ
ではなぜ私たちが夢中になる映画が存在するのか。
本書の第三章からは、映画の登場人物に「見ているしかない」場面を作ることで「座席で見ているしかない観客」と擬似的に重ね合わせることの重要性を説いています。
「座席で何も出来ずにただ見ているしかない」という映画を見る行為は、それ自体がフラストレーションの貯まる行為です。
このフラストレーションが貯まる行為と同じような「手も足も出ない状況」を映画内の主人公にも用意することで、我々観客はついつい、似たような状況に陥っている主人公に感情移入してしまうというロジックです。
しかし単にこのフラストレーションの貯まる状況を重ね合わせ続ければいいわけでもありません。”擬似的に”というところがミソで、映画のマジックであり本書の肝です。
・・・というか“擬似的に”なのは当たり前ですね。ただ映画内人物と観客の視点を重ねて没入できるなら全編主観視点の作品「ハードコア」になっちゃいますから。
公式より映画「ハードコア」の予告。全編が主観視点で構成された異色作。
本書でも「ハードコア」の原点とも言うべき、やはり全編主観視点の映画「湖中の女」の失敗をヒッチコックによる指摘と共に紹介されています。
いかにして擬似的に観客と主人公の視点を重ねるのか。その手法については本書を手にとって確認していただければと思います。
手も足もでない→アクションで打破するカタルシス
さて、座席で受動的に「見ているしかない」観客と、映画内で手も足も出ずに「見ているしかない」登場人物との重ね合わせというのは映画制作に詳しくない一般人であっても、普遍的に色んな映画で無意識に目撃してきた手法だと思うのです。
撮影技法から離れて、例えば物語の構築という視点だけで言い方を変えれば、これは脚本術における「主人公の追い込み」でもあります。
最近の映画でいうと「ファースト・マン」は、この「見ているしかない」視点がかなり多かったですね。ロケット(またの名を「鉄の棺桶」)の中で、出来ることも非常に限られた空間に縛られ、身を委ねるしかない描写がとてつもない臨場感をもたらしました。
また「バジュランギおじさんと、小さな迷子」なんかもすごかった。序盤から「母親の乗った列車に置いていかれて、ただ見ているしかない」とか「悪い大人に連れられて、為す術がない」など、異国で迷子になった上に発声ができない少女という視点を活用して、数多の催涙場面が構築されています。
少なくとも私の見てきたインド映画全般について思うことですが、こういう「手も足もでない状況に追い込む」点でインド映画ってどれも容赦ないですね。明るく楽しい一点が伝わりがちですが、その基点が「見ているしかない」ほどに絶望的な「追い込み」にこそあると思います。
「ファースト・マン」にしても「バジュランギおじさん」にしても、これらの「見ているしかない」状況を作った上で、それぞれの主人公やヒーローたる役目を負う人物が道を切り開きます。アームストロング船長やバジュランギ兄貴の決断やアクションによって、カタルシスをもたらすという展開ですね。
しかし繰り返しになりますが、やはりこの「見ているしかない状況」の重ね合わせだけで、90分~120分以上という長時間を持たせることはできません。
ここから本書では「視点のリレー」「サスペンスの構築」、そしてキーワード「いつのまにか」の種明かしへと具体的手法を交えて深めることになるのですが、そこは是非お手元に取って続きを確かめていただければと思います。
まとめ
「見る」という認知的な行為から始まって、「いつのまにか」感情を映画の人物と共有してしまう理由について、「視点」から読み解く本書。
解説の順序自体も、メタな見る行為の説明から「いつのまにか」映画内部の手法解説へのめり込んでいく構成であり、本書の論旨に沿う一貫した作りで読みやすく出来ています。
文章表現がやや平易ではないことや「ハリウッド映画の3幕構成」についての知識(ググればOK程度)が必要な部分もあるのでそこは少し注意です。
しかしコンパクトなページ数で高密な論旨に溢れているので満足度はかなり高いです。お値段もお手頃でコスパが素晴らしい。
映画好きに限らずストーリーのある漫画やゲームが好きな人、物語の創作に興味がある人、ちょっとした小一時間の暇をつぶしたい人に最適な一冊です。
中澤正行さん著【「いつのまにか」の描き方: 映画技法の構造分析】は現在、AmazonのKindle unlimitedで無料で読むことができます。オススメです。


スポンサーリンク
