篠原涼子と西山秀俊が夫婦を演じる映画「人魚の眠る家」を観てきました。
原作は東野圭吾さんの小説です。
なかなか考えさせられる映画だったので、内容とレビューを書いていこうと思います。
映画本編の内容についても書いてあるので、ネタバレ注意です。
あらすじ
瑞穂の小学校受験が終わったら離婚する。
そう約束した仮面夫婦の二人。
彼等に悲報が届いたのは、面接試験の予行演習の直前。
瑞穂がプールで溺れたー。
病院に駆けつけた二人を待っていたのは残酷な現実。
そして医師からは、思いもよらない選択を迫られる。
過酷な運命に苦悩する薫子。その愛と狂気は成就するのか。
愛する人を持つすべての人へ。感涙の東野ミステリ。
母親の愛情と狂気を描いた映画
母親は強い
そう感じさせる映画でした。
この映画は瑞穂が不慮の事故で脳死状態となり、両親に究極の選択を迫られる場面から始まります。
究極の選択とは
脳死としての死を選択するか
心停止としての死を選択するか
この究極の2択。
脳死を選択する場合、臓器移植を行う事となります。
脳死の判定は臓器移植を行う事でしか判定されないのです。
もちろん臓器移植をすると、娘、瑞穂は心臓も止まり、体も死を迎える事になります。
脳死を選択出来なかった両親は、瑞穂をどうにか生かそうとする。
親戚が諦めたり、周囲が気味悪がったりする中、それでも必至に瑞穂は生きていると信じ続け介護を続ける。
そんな薫子の姿に胸を打たれます。
特に薫子を演じた篠原涼子さんの演技は素晴らしく、最初はただ悲しみに暮れるだけだったのが、物語の後半になるにつれ、徐々に狂っていく様は観ていて圧倒されます。
最先端の医療技術の凄さと、おぞましさ
本映画に出てくる最先端技術はどれも驚かされるものばかりです。
首から下が動かせない男性が、脳派だけで機械の腕を動かし、コップに水を注いで見せたり、脳死となった瑞穂に電気的なパルスを与えることで、自在に体を動かすことが可能となっています。
薫子が瑞穂の体の維持のため、これらの最新技術を用いて外部から瑞穂の体を動かし、肉体に筋肉をつけさせ体を維持させることになります。
これらの技術が実際にどこまで実用化されているのかは分かりませんが、映画で描かれた技術は近い将来実用化されるか、既にある程度試験的にでも実用化されているものなのでしょう。
そう考えると、例え四肢が動かなくても、脳さえ生きていれば自在に体を動かすことの出来る時代が近づいて来ていることに驚きと、医療の未来に明るさを感じることができます。
ですが、作中ではこの技術を既に意識のない脳死状態の瑞穂に使うことに意義があるのか問われる場面があります。
あくまでこれらの技術は、脳が生きている人間にのみ意味があるからです。
脳死
法律上では死んだ人間と同義である存在に、これらの技術は必要ありません。
つまり、
見方によっては死んだ人間を、生きた人間が自分の自己満足のために自在に操っているように見えてしまう。
ゾンビ・キョンシー・フランケンシュタイン。
方法は違えど、瑞穂が死者だと考える人からすれば、死者を冒涜するという意味では同じような存在と言えなくもないでしょう。
この死者に対しての冒涜とも取れる行動が、医療行為として行われる事に不気味さを感じさせるのです。
薫子の中では瑞穂はまだ生きており、瑞穂のリハビリの為の行為であるはずの行動が、他人から見れば死体を自己満足の為だけに動かしている狂気の行動として映る。
脳死でありながらも体は最新の技術によって徐々に回復し、まるでただ眠っているだけの健常者と変わらないような瑞穂の姿に、母は瑞穂の意識回復への思いはさらに強くなってゆく。
ですが、他者から見れば、薫子の行動は死体を自分の自己満足の為に動かす、常軌を逸した行動でしかない。
薫子の思いとの乖離が、徐々に薫子の心を蝕んでゆくこととなっていきます。
脳死判定の苦悩 臓器移植の苦悩
この映画で描かれるのは、
脳死した瑞穂が生きているのか、死んでいるのか。
どちらとも言えない曖昧な法律を作った
今の日本の社会に対しての問いかけです。
日本では脳死判定で脳死と判定されない限り、患者は死んでいるとは判定されません。
そして脳死判定を行うには、臓器移植を行う時にしか判定が出来ないのです。
つまり、臓器移植を行うと言う事は、患者の心臓を止めるという事に他なりません。
人間が脳死となる時は、この映画のように、水に溺れるといった、外的要因が全くないような状態で死に至る場合が多いです。
というのも、事故であれば脳も損傷を追っている可能性が高いからです。
体が綺麗な状態で、まるで死んでいる様に見えず、ただ眠っているだけにしか見えない状態の自分の子供を、親は死んでいると思えるのでしょうか?
体が綺麗で寝ているとしか思えない自分の子供を、両親の選択によって死と判定する。
どれだけの苦しみを両親受けることか、そしてどれだけの親がその選択をする事が出来るのか。
想像も付きません。
これが海外であれば話が変わってきます。
海外では先に脳死と判定されてから臓器移植の確認が行われれます。
つまり両親は
医師から既に子供が死んでいると説明されてから、臓器移植が行われるのです。
どうして日本では海外のようになっていないのか。
それは日本において死がとても重大な案件として議論されているから、この様な法律となってしまっています。
脳死だと言われても、脳自体がまだ未知の領域であり、確実に二度と意識が戻らないと断言できるものではありません。
ですが、身体だけ生きていたとしても、脳が死んでいて生きていると言えるのか。
未だに日本において、そして世界において議論されている内容です。
この悩みを抱え、悩み、そして最後には狂ってしまったのが、薫子です。
映画の最後、薫子は瑞穂に刃物を突きつけ、呼びつけた警察=国家に対して自分の行動の是非を問いかけます。
ここで私が瑞穂を殺したら、私は殺人者なのか
この問いの答えはきっと無いでしょう。
有るのは、自身に納得できるものを見つけ、それを信じることしか無いのです。
薫子は最後まで瑞穂が生きていると信じ、そして8月30日に瑞穂が夢枕に立って別れを告げたことで逝ったと判断すると、途端瑞穂は死んだものとして行動しました。
これは瑞穂が8月30日まで必死に生きていたと信じていたから。
そして8月30日に死んでしまったと確信し、ただの肉体だけとなった瑞穂の身体には執着せずに、最後はあっさりと臓器移植を行う事を決め、脳死判定を行ったのです。
「人魚の眠る家」感想まとめ
私は原作小説を読了済ですが、映画では、原作では描画の足りなかった介護の様子や、狂気に落ちていく薫子の姿が原作以上の迫力で描かれています。
色々と考えさせられる題材の映画で、いまの日本の脳死について、臓器移植について考えさせられました。
答えの出ない問いかけだと思いますが、実際にこの映画のような悩みをもつ人はいらっしゃるのだと思います。
もし私が同じような場面に出くわしてしまった場合、どのような選択をするのかわかりません。
ですが、このような答えの出ない問題が世の中にはある。ということを知り、考えるいい切っ掛けとなりました。
映画では語られなかった薫子の葛藤や、募金をしていた人たちの話が原作本では書かれています。
この映画の原作を読んでみたいと思った方は、一度原作本を読んでみてはいかがでしょうか?
映画の内容と原作本との違いをまとめてみました。
【人魚の眠る家】 原作との違い 映画では描かれなかった場面とは?
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