本日公開の映画
「人魚の眠る家」を早速見てきました。
この映画の原作である小説は既に読了済みですが、映画と小説ではどのような違いがあったのか見ていこうと思います。
「人魚の眠る家」感想はこちら
【ネタバレ注意】「人魚の眠る家」は今の社会に訴えかける映画だった 映画レビュー
篠原涼子演じる母の狂気度が高い
やはり俳優が演じる分、小説では感じられない狂気や迫力を感じることが出来る。
とくに映画では母親が徐々に狂っていく様に力を入れているのか、初めはただ娘の為だった行動が、徐々にエスカレートしてく様は女優の実力を感じさせる。
原作では薄かった実際に介護を行う場面が、映像として映される分、介護の辛さ、大変さがよく分かるようになっていた。
原作では影の薄い父親が、かなり良心的な父親として登場する
原作での父親の立ち位置は、娘の為に最新技術を提供するものでした。
娘の介護は母親が行い、父親はお金を渡したり、月に2回程度様子を見にくる程度。
父親の部下である星野の方がよっぽど役に立つ人物です。
ですが映画では視聴者視点に立ち、徐々に狂っていく母親とは反対に、かなり良心的な人物として描かれています。
正直浮気した人とは思えません。
星野がただのクズ
良心的な父親に対して、クズに身を落としたのが部下の星野。
結婚間近の彼女がいるにも関わらず、小説では母親に一目惚れし、母親から喜ばれたいが為だけに頻繁に家に通うようになり、やがて彼女から別れを告げられる星野。
小説では星野の心理描写を読むことができるが、映画ではその様な説明が全く無いため、ただの浮気男に成り下がっています。
臓器移植の手伝いが母親から父親に変わり、母親の苦悩・救いが削られている
原作ではかなり重要なファクターであろう、母親が他人の名前を偽って臓器移植のボランティアを行う部分が丸々カットされ、映画では父親が100万円寄付し、相手の両親から話を聞くだけになる。
ここは本来母親が移植を待つ側の人間の気持ちを知り、自分のエゴで脳死である娘の延命を選択してしまったことに迷い、苦しみ、そして救われる大切な場面でした。
ですが映画では、父親が臓器移植に寄付したことで、母親が父親を疑い疑心暗鬼になっていく場面として描かれます。
映画では母親の葛藤部分があまり描かれないので、どうして狂っていったのかの説明が足りていない印象を受けました。
訪問学級の先生が出てこない
母親が臓器移植のボランティアに行かないので、この辺りは全てカットされています。
絵本は母親が娘に読んで聞かせるシーンのみ存在。
原作で登場した新章房子も、もちろん登場しない。
これにより、本来もっと衰弱しているはずの娘が、まるで今にも動き出しそうな状態であるというある種の異常さが映画では伝わり辛くなっています。
瑞穂の死んだ日が違う
原作では瑞穂は3月31日に病態が悪化し4月1日(薫子の中では3月31日)に死亡しているが、映画ではなぜか8月30日が命日となっている。
どうしてこのような変更になったのかは不明。
星野の彼女と父親が面会をする
原作小説では、星野の後をつけた彼女は、瑞穂のリハビリを見て逃げ出してしまい、そのままフェードアウトしますが、映画では父親に苦言を呈しに行きます。
自分の彼氏を良くわからない実験に使われ、それに取り憑かれてしまった星野のことを案じての行動なのか、単なる忠告なのか。何か一言でも言ってやろうと思ったのか定かではありませんが、原作小説には無い追加シーンでした。
原作との違いまとめ
原作の小説では、脳死・臓器移植などの問題点・苦悩を読者に向けて問いかけています。
それに対し、映画では母親の深い愛情と、愛情によって狂っていく様が描かれていました。
原作が本来訴えたかったであろう、今の日本の臓器移植の問題点、脳死の考え方への訴えが映画は少なかったり、
移植を待つ側を知るために行った母親の行動が、映画では丸々無くなり、
ただのヒステリックなおばさんでしかない印象をうけました。
ですが、物語自体は原作遵守でよく作られており、映画単体でも面白いし、映画は映画で考えさせられる内容になっていると思います。
特に篠原涼子さんの迫真の演技は大変素晴らしかったです。
小説が文庫本で469ページとかなり分量が多いのでカットされるのは仕方がないのですが、映画を読んで原作が気になった方は、是非原作も読んでいただきたいなと思います。
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