原題:Padman
上映時間:137分
監督:R.バールキ
キャスト:アクシャイ・クマール ソーナム・カプール ラーディカー・アープテーなど
あらすじ:現代のインドで、安全で安価な生理用品の普及に奔走した男の実話を映画化したヒューマンドラマ。
インドの小さな村で最愛の妻と新婚生活を送るラクシュミは、貧しくて生理用品が買えず不衛生な布を使用している妻のため、清潔で安価なナプキンを手作りすることに。
生理用品の研究とリサーチに明け暮れるラクシュミは、村人たちから奇異な目を向けられ、数々の誤解や困難に直面する。そんな彼の熱意に賛同した女性パリーの協力もあり、ついに低コストで大量生産できる製造機の発明に成功。
農村の女性たちに、ナプキンだけでなく、その製造機を使って働く機械も与えようと奮闘するラクシュミだったが……。
引用元:https://eiga.com/movie/89723/
12月09日 TOHOシネマズなんばにて鑑賞 [ 85/100点 ]
2001年当時において生理用ナプキンの普及率が12%だったインド。結婚を機に不潔な布で生理に対処しなければならない女性の実情を知ったアルナーチャラム・ムルガナンダム氏が、清潔で低価格なナプキン作りと普及に尽力しました。
本作「パッドマン 五億人の女性を救った男(以下、パッドマン)」はムルガナンダム氏の実話をベースとしながら、「王道の面白いインド映画」を目指して大胆な脚色を施されています。
保守的とも言える「ボリウッド映画」として要求される型への忠実さ、その一方で女性の生理に対する悪しき風習への問題提起に成功した革新性。
この絶妙なバランス感覚を持つ快作「パッドマン」について考察していきます。
本記事はネタバレを含みます。ご注意ください。
「粉砕」:史実を咀嚼したR.バールキ監督
ボリウッド映画としては保守的な作品
生理用品の普及に貢献した人物の伝記。つまりはサクセスストーリーの映画化という題材に対してどういう作品に仕立てるか。
本作「パッドマン」の監督・脚本を務めたR.バールキ監督は、ムルガナンダム氏に敬意を示しつつも、あくまで王道のボリウッド作品として作る選択をとりました。
パンフレットやインタビューによると監督は実話を元にした映画を作ることが好きでは無かったことを公言しています。そもそもオリジナルの物語を、一から作る作家性の持ち主。
残念ながら彼の監督作品については見ていないので、詳細に触れることはできないのですが、少なくともインドの超大スター俳優アミターブ・バッチャンからは全幅の信頼を得ているようです。
アミターブ・バッチャンは2007年R.バールキ監督デビュー作「Cheeni Kum(砂糖は控えめ)」から、カメオも含めて全作品に出演しています。「パッドマン」の本編においても、アミターブ・バッチャン本人役でのスピーチで「インドにはパッドマンがいる」のセリフで題名の名付け親としての重要な役回りがありました。
そもそもの作家性がオリジナルストーリーを得意としているR.バールキ監督。なので、本作でも主に脚色という極めて大きな影響を及ぼしています。
以前に「ボヘミアン・ラプソディ」について考察した中で、実話ベース映画についての脚色の難しさ(と言うより嫌いな所)を書き出したりもしました。
こと「伝記映画」というジャンルは脚色がノイズになりやすく、「事実として伝えること」と「映画としての面白さ」のバランスに悩まされるもの。加えて今回は題材がセンシティブであり、メッセージの押しつけや乱暴な紋切りはかなり危くなる可能性もありました。
選択肢としてはもっと実際の史実に沿った、ドキュメンタリー寄りの映画にもできたはず。
にもかかわらず、あくまで「ボリウッド流」でアプローチし、史実として伝えるべき要素を一度”粉砕”して、ナヴァ・ラサと呼ばれる9つの感情の起伏に沿ったボリウッド映画に再解釈されています。これはなぜなのか。
「圧縮」:愛の物語に型どったストーリー
意地悪な言い方をすると結果として「パッドマン」は、愛の物語というありがちなお話の中にムルガナンダム氏の成功話を落とし込む事になったわけですが、これが奏功している理由はやはり企画初期からオリジナルの映画を作るこだわりがあったように思います。
本作の脚本はメインキャストであるアクシャイ・クマール、ラーディカー・アープテー、ソーナム・カプールに関してはアテ書きで作られている(詳しくはパンフレットを。720円実質タダ!)。
特にアクシャイ・クマールは、奥さんの元女優トゥインクル・カンナーが本作の原作者&プロデューサーなこともあり企画の初期から関わっています。誰がどう考えても本作のぶっちぎりMVPパフォーマンスを発揮できたのは、アクシャイ・クマールの演技力を前提として制作に入れたことは大きいでしょう。
ラクシュミを成り立たせた功績
まず主人公のラクシュミは見方によっては本当にMAD(いかれてる)行動をするキャラクターで、妻ガヤトリのためにと言いつつ、その妻が短期的には嫌がるようなことであっても、そして周囲から咎められても徹底した頑固で行動を貫く男。
衛生面の事を考えてとはいえ、初潮を迎えた隣人の女の子に、壁をよじ登って手作りのナプキンを渡すということは絵面としてかなり荒唐無稽、あるいは現実感のない只のオカシイ人物に見えてしまう可能性もあります。
とにかく序盤の「因習にとらわれる妻や村の人々」と「ラクシュミの直情的な行動」の闘いは事実を含んでいたとしてもバランスの難しい描写。
一方でラクシュミは「田舎町にいる庶民の愛妻家」であり、アイデアをその手で作り出せてしまう「発明家としての知的な側面」も持たさねばならない人物でもあります。
これを成り立たせる演技幅と地力のある人は、個人的にはまだ少ないインド映画の視聴歴ですが、アクシャイ・クマールその人以外にいないのではないかと思います。
ネットで見やすい上記事の出演4作品だけでも、十分にその演技力は伝わるのではないかと思うのですが、「パッドマン」を見てから特筆すべきなのは実は「チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ(以下CC2C)」でしょう。
ご覧になるとわかるのですが、とにかくギャグの嵐とふざけ演出の矢継ぎ早で出来上がった作品で演じるアクシャイは見事にそれを体現しています。そういうコメディアンとしての彼も凄いのですが、実は「CC2C」の肝はそんなギャグよりも数少ないシリアスシーンを見ていただきたい。
表情一発でスクリーンのとっちらかった状況を、真剣な眼差し、あるいは泣き顔、あるいはクシャッとしたアクシャイの笑顔に引き込み、空気感を変えてしまう力だと思うのです。これによって荒唐無稽な「CC2C」の主人公に、魂がしっかり根付いているように見えるギリギリのバランスに変えています。
公式のプレビューより「チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ」
「パッドマン」はこの逆。序盤の追い詰められるラクシュミ、中盤のシリアスになりそうなところなどで要所要所にユーモアをしっかり入れてくる。本当にスイッチ一つでコメディとヒューマンドラマの世界を行き来できてしまうチャームの持ち主です。
うっかり鉄の扉にぶつかってフラフラよろめくとかベッタベタなことを、ポンッとワンシーンの最後に放り込めてしまう。この演技ができる、説得力ある形で映画のバランスも崩さないでこなせてしまう。
脚本段階のアテ書きから「実話系映画に多数出演するアクシャイ・クマールを前提として、喜怒哀楽が多様な真正のボリウッドムービーを制作できる」という安心感が、本当に映画の最初から最後までぶれない。
このことはOPとEDのミュージカルシーンを見比べてもわかります。
何処かにいそうな庶民な善き人から始まり、とてつもなく奇天烈なんだけど隣りにいてほしい実在感あるヒーロー像として着地する。曲調なども相まって一貫した演出です。
公式のミュージックビデオより。ラクシュミ夫婦の関係と人物像を手際よく表現したOP。
公式よりこちらは歌詞付きのミュージックビデオ。 あの内容の映画を、
この歌詞にしてこの着地に終わる爽快感と不可思議さを味わっていただきたい。
ゆえに、センシティブ過ぎると思われていた女性の生理という題材をよくある娯楽大作的「愛の物語」という型に”圧縮”できているし、話が煮詰まりそうなところで適度にその空気を抜いてくれるアクシャイ・クマールが最大限に活きるのでしょう。
「包装」:タブーをボリウッド色で包括する
史実からあえて切り離した創作話である
単体映画としてのストーリー構成はとてもシンプル。登場する人物の配置などもおおよそのインド映画によく見られる形ではないでしょうか。演出などもインド国外向けも視野にしているなど、国や文化が違っても見やすい形になっています。
ただし留意しなければならないのは、やはりこの型に押し込むことで生じた脚色のポイントでしょう。とてもざっくりとした例であげると以下の3点でしょうか。
・ムルガナンダム氏の物語は南インドのタミル語地域が舞台(映画は北インド)
・架空の女性パリー(ソーナム・カプール)の存在とロマンス
・国連での演説は史実ではない(TEDなどで素晴らしい演説はされている)
本作「パッドマン」はこれら大胆な脚色を全編に渡って施すことで、あえて史実から離れることを選択されているようです。
この構成と舵のきり方はたまたまですが日本での公開が近かった「ボヘミアン・ラプソディ」に非常によく似ています(もちろん「パッドマン」の本国公開のほうが先です)。
つまり史実同様に主人公が持つ圧倒的なライブ(今回は演説)の説得力を武器にし、その武器が映画のラストで最大限に面白くなることへ徹底的に構成した作品、ということになります。
必須条件としてのボリウッドフォーマット
タブーとされている題材をボリウッドフォーマットに沿いながら大作に仕上げる手法はそれほど珍しいものではありません。
「パッドマン」での史実からの変更点として舞台が北インドへ移ったこととパリーというキャラクターについても、他のヒンディー語映画同様に映画化の必須条件として要求されたものです。
まず北インドの映画であるボリウッド作品で、タミル語をしゃべる主人公および映画作品というのはありえません。南側でヒットした映画を北側でリメイクして作り直すなどがしばしば行われる実情を見ても、ヒンディー語地域で制作する体制が決まっているなら当然のことでしょう。
次にパリーについても様式美として要求されたことは明白です。中盤から孤独になってしまうラクシュミにスクリーンを彩る役割はもちろん、「愛の物語」を描く際に用いられる「恋愛vs結婚」の葛藤から最終的に「結婚」へと回帰する構図はボリウッド映画の定番です。
このあたりはパンフレット(720円実質タダ!)の松岡環氏の記事と、パンフレットにも寄稿されている高倉嘉男氏のWebサイト「バハードゥルシャー勝」の「インド映画を10倍楽しむ方法」という記事が大変参考になるので興味のある方にはおすすめです。
このある種ジャンル映画的とも言える型に忠実であることで、タブーとされていた問題とそれを次々に詳らかにしていくラクシュミに思う存分に冒険をさせることが出来ました。映画の構造自体は型破りにはせず、そうした革新性はあくまで内容にのみ持たせたという判断です。
この判断には議論の余地なくインド映画として正しい判断だとは思うのですが、一つだけフェアに言うとパリーについては一本の映画として必ずしもうまくいっているとはいい難いです。ハッキリ言って蛇足感を拭いきれていない。
せめてラクシュミの当初の動機「妻のために俺はやるんだ!」を強化して二人の関係が終わらないといけません。この映画の推進力であるラクシュミの動機を、現状のパリーは終盤にむかうにつれて単なる強いブレーキになっています。
ラクシュミが未練たらたらで帰るのではなく、もっと気持ちよく颯爽と妻の元へ帰っていけるようにパリーが機能していれば、エピローグのカタルシスは数十倍だったように思います。
実話映画としてバランスも取った
実話の大作映画化らしい楽しいシーンは随所に用意されていました。ポスターなどで印象的な川辺の街マヘーシュワルを始めとした大掛かりな屋外のロケは豊富でしたし、「SAYANI」のような期待通りに華やかなダンスシーンもありました。
公式より歌詞付きのミュージックビデオ。「SAYAANI」は劇中一番の華やかさ。
他にも先述した大物俳優のカメオ出演だったり、皮肉のきいた上品なコメディ部分などもあげることは出来ますね。
これら楽しい仕掛けを用意する一方で、画の撮り方に関しては手持ちカメラを使ってリアル空気感を出そうと工夫もされています。主人公たちのそばで、彼らの生き様を見守るような視点ですね。
特に会話シーンでこれを多用されていましたが、ちょっと功罪もありました。俳優陣が演技力のある方たちなので、この撮り方である程度ドキュメンタリー映画的に緊迫感ある空気ができていた部分もあります。
しかし同じ場所からの同じ構図を長回しで撮り続けるだけのシーンも多く、退屈だったり、主人公の追い詰め描写であることなども相まって余計なイライラを発生させていました。人によっては「パッドマン」のこういった会話パートに時間が長く感じてしまうかもしれない。
もっとも映画の大枠の出来からすれば、これらの注文は「片側がくっつくともっと良い」レベルよりもずっと小さい話ですけどね。
あの11分にラクシュミは実存していた
臨場感に関して言えば、NYの国連演説シーンは完璧でした。
理由のまず一つ目としては、再三あげている物語構造の効果。前半から我々観客は理不尽にまで叩きのめされるラクシュミを、劇中の誰よりも近くで見てきたわけですから否が応にも感動を覚えてしまいます。
もう一つの理由としてここであげたいのが、この演説シーンはワンテイクの一発撮りで撮られたということ。
この凄みに関しては、構造として似ているとした「ボヘミアン・ラプソディ」完全に越えてしまっていると私は思います。
このシーンはムルガナンダム氏によるTEDなどのプレゼンは参考にしつつも、決して本人の再現ではないのです。
TED公式よりムルガナンダム氏のプレゼンテーション
私達が映画館でみたラクシュミの演説は、本当にあの11分以外に世界には存在はしません。脚色に彩られた架空の人物ラクシュミ、その人生に一度きりの、一世一代の大舞台は私達が見たあの一回のみ。
ゆえにどんな凝った演出よりも人々の心に訴えかけ、あの必死さが胸を打つのでしょう。これを演じたアクシャイ・クマールの集中力は驚異的です。
俳優アクシャイ・クマールがこの映画で伝えるべき本質を深く理解していたからこそできるパフォーマンスであり、この演説に至るまでを支えたキャスト、スタッフも職人的な素晴らしい仕事をされました。
ここまでに書いてきた映画「パッドマン」のあらゆる要素を”包括”した見事なラストです。
「殺菌」:あぶり出した私達が対峙すべき問題
社会的影響とムーブメント
ここまで映画の内容について触れてきましたが、最後に「パッドマン」の果たした現実での意義についても少し書き留めます。
教育の行き届いたインドの都市部では劇中のような「生理の5日間」に屋外に出て過ごすようなことはほとんどないものの、田舎ではまだまだ慣習として根強いそうです。
ただ2018年7月には生理用ナプキンはインド国内の軽減税率の対象となり、課税は0%になりました。それまでは消費税12%の嗜好品扱いだったようです。
また、映画の内容がタブーに触れているとしてパキスタンなどでは上映が禁止となっています。
宗教批判や政治問題を打ち出したようなインド映画も多いので、上映禁止そのものは珍しくないのですが、「パッドマン」ほどに一般的娯楽ボリウッド作品として仕立てたとしてもこういう結果になることにやや驚きもあります。
この他にも女性の自立支援につながっていることなど多岐にわたる影響があるのですが、このあたりも全部、公式パンフレットで完璧にまとめておられるので是非購入を!720円どう考えても安すぎ!実質タダ!
社会的影響以外では、ぜひTwitterやGoogle検索などで「#PadManChallenge」を各人で調べていただきたい。
本国での「パッドマン」公開時にボリウッドスターを始めとした有名人が、ナプキンを手にして写真を取ることで「生理用品は恥ではない」と示した運動だ。
「パッドマン」の提示した明るいメッセージを正しく広め、”対峙”すべき問題に光を当てたムーブメントとして、これもまた映画の一部と言っていいほどに必見です。
まとめ
最後にまとめです。ここまで読んでいただいてありがとうございます。
この映画が公開するまでにアクシャイ・クマール出演4作、そして「マダム・イン・ニューヨーク」を予習してから挑んだ本作「パッドマン」ですが、期待通りに面白い作品でした。
一部モヤモヤする部分もあるにはありましたが、ここまでに書いたとおりです。全体の安定感、その質は世界標準の映画として堂々たる快作だと思います。そこに伝えるべきインドの社会的テーマもきっちり描いて娯楽大作になっているのですからもう言うことはありません。
ぜひ劇場でご覧ください!
・・・と締めたいところですが、もう少しお付き合いください。
映画は見た、次に私達は何をする?
この映画「パッドマン」のついて記事を書くに当たり、様々な方の感想を拝見しました。内容としてはどの方も様々でその事自体には何も言いたいことはありません。
ただ一つ、折角この「パッドマン」を見たのだから、今度は「この日本に生きる自分たちの女性の月経に関することへの無知と恥」をもっと明らかにしたほうが良いのではないか、という疑問を抱いた次第です。インドの〇〇で終わってほしくない。
この映画はR.バールキ監督の戦略通り娯楽作品として史実から一部離れても魅力的な映画となり、アクシャイ・クマールなどが屋台骨をしっかり支えました。しかし映画自体を褒めて終わるのは非常にもったいないんです。
「男性こそ見るべき」とか「貴重なシネコンで見られる傑作インド映画」とか色んな枕詞をつけたくなる気持ちは痛いほど分かるのですが、そこで終わってはとても勿体ないんです。「これが面白かったら『きっと、うまくいく』も見てください!」と勧めるのは悪くないけど、他の娯楽作品をただ並列に置いて勧めるのはちょっと待ってほしい。
私自身は男兄弟で、家庭内には女性は母親一人しかいなません。母は生理用品を私達兄弟が見えないところにしまっていたようです。今でも具体的に何処に置いていたかは見ても聞いてもいないし、分かっていません。
普段立ち寄るコンビニで普通にナプキンが売られていることにも無関心で、その平均的な値段もわかりませんでした。パンフレットにインド国内でのナプキンの値段の高さは示されていましたが、日本との比較は知識や実感が無いために全くわからなかったのです。
もしあなたが男性なら「片側がくっつくと良い」がどれぐらいの必要性だったか気づけましたか?
私はナプキン開発当初のラクシュミと同じく、この片側がくっつくという機能の重要性視点ごと欠如していました。ちゃんとこういう自分の無知をそれぞれが書いたほうがいいし、喋ったほうがいい。
無知から始まる虚しい衝突が本作の始まりだったわけですが、これはインドの田舎だけでなく日本にいる私達にもしっかりと根づいていることを考えたほうがいい。
「パッドマン 五億人の女性を救った男」はあえて言えばもろもろの理由を含めて快作には違いないけども、扱ったテーマ以外の斬新さはない「普通」の作りをしたインド映画です。
そこを表面的に褒めるだけではなく、見た私達日本人がこの映画から「何を気づけたか」をしっかり表明していくことで、「最高」の映画となるポテンシャルが最大に発揮されるのではないでしょうか。
↓今回のレビューの予習に役立った映画を紹介しています↓
↓物語構造が似ている映画「ボヘミアン・ラプソディ」のレビューです↓
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