原題:ROMA
上映時間:135分
監督:アルフォンソ・キュアロン
キャスト:ヤリッツァ・アパリシオ マリーナ・デ・ダビラ マルコ・グラフ ダニエラ・デメサ カルロス・ペラルタなど
あらすじ
「ゼロ・グラビティ」のアルフォンソ・キュアロン監督が、政治的混乱に揺れる1970年代メキシコを舞台に、とある中産階級の家庭に訪れる激動の1年を、若い家政婦の視点から描いたNetflix製ヒューマンドラマ。
キュアロン監督が脚本・撮影も手がけ、自身の幼少期の体験を交えながら、心揺さぶる家族の愛の物語を美しいモノクロ映像で紡ぎ出した。
70年代初頭のメキシコシティ。医者の夫アントニオと妻ソフィア、彼らの4人の子どもたちと祖母が暮らす中産階級の家で家政婦として働く若い女性クレオは、子どもたちの世話や家事に追われる日々を送っていた。
そんな中、クレオは同僚の恋人の従兄弟である青年フェルミンと恋に落ちる。一方、アントニオは長期の海外出張へ行くことになり……。
2018年・第75回ベネチア国際映画祭コンペティション部門で、最高賞にあたる金獅子賞を受賞。
引用元:https://eiga.com/movie/89560/
2月4日 Netflixにて鑑賞 [ 90/100点 ]
さながら文学のように行間に想いや祈りを散りばめた傑作
ハリウッドの映画業界とはやや険悪なNetflix製作の映画「ROMA」。アカデミー作品賞ノミネートを聞いてからようやく視聴しました。
見た結果、有無を言わさぬとてつもない作品でした。大げさじゃなく、鑑賞直後は言葉を失ってしまい…。
モノクロの映画ながら、おそらく人によって受け取り方が七色に変化してしまう本作。
この記事では、どうにかこうにか私なりの考察と感想をまとめたものを綴っています。
本記事はネタバレを含みます。ご注意ください。
かろうじて保たれる「幸せな30分」
まずオープニングで引き込まれました。
この映画のラストを象徴するかのような、床一面に撒かれる水の波。そこに映し出される空と飛行機。アイデアと画でおおっと思わされて引き込まれます。
そこからの淡々と着実に家政婦として働く主人公のクレオをカメラが追いかける。
このワンシーンだけで、後に何度も登場する家の内部をしっかりと見せて、無駄なく物語を始めるこの手腕。
全体的に言えることですが「無駄がとにかく無い」ということが「ROMA」全体に一貫しています。
そもそもがモノクロで撮られているのも、単にこれが1970年のノスタルジックな演出というだけでないように思われます。
俳優の微妙な所作や、必要な描写や情報に集中して画面を見られるので、見るべきポイントがとても整理されています。
仮にもし、これがカラーだとメキシコの街が本来持っているカラフルな色使いがノイズになり得たかもしれない。
例えばクレオらが大通りを走る場面や、出店で賑やかな映画館前などはカラーだと人物たちが主題に見えず、古き良きメキシコの街が前に立ちすぎた可能性があります。
そうではなく、本作「ROMA」はあくまでも登場人物の人生に焦点を当てていることがモノクロ故にはっきり見えてくるのです。
物語の序盤はこうした余計なものを削ぎ落とされた演出、画面構成、カット編集の手腕で、一見すると幸せそうな家族と、そこで意欲的に働くクレオの微笑ましい日常が語られていきます。
しかし、この「一見すると」が絶妙です。
物語の中盤以降を知ってしまうと、実はこの「幸せそうな序盤30分」は登場人物がかろうじて、ギリギリのバランスで取り繕っていたものだというのが分かっていきます。
夫婦関係、恋人関係、人種や身分の差別、貧困、政治問題・・・・全てがまだなんとか綺麗に回っているように見える。
これを象徴する場面だと、家族の父親アントニオが横幅のでかいフォード・ギャラクシーで帰ってくるシーンでしょうか。
この駐車シーンの「なにか一つでも間違えば大きな傷になる」という苛立ちさえ覚えそうなコマゴマとした運転。
精密なハンドルとシフト操作をしている手付きがこれでもかと長々と描写され、あまりにも丹念にやるのでつい笑ってしまうポイントでもありました。
しかし、このかろうじて保たれる均衡の描写こそ、映画「ROMA」の序盤を象徴しています。
この均衡が崩れ始めるのが、映画開始から30分を過ぎた頃にやってくる不協和音を擁したマーチバンドの到来です。ここから文字通り音を立てて、幸せな一家の生活が崩れていくのが印象的です。
父性への嫌悪感:恋人フェルミンと不倫の父親アントニオ
公式のティザー・トレイラーより。クレオの試練がギュッと凝縮されて描かれています。
物語の中盤から主人公のクレオ、一家の母ソフィアを中心とした家族の試練が始まります。
その葛藤の中心となるのは、クレオの恋人であるフェルミン。そして一家の父であるアントニオです。
この2人に共通して言えるのは徹底的に理不尽を振りまく存在だということです。端的にいうと中盤から訪れる不幸の元凶と言って良いかもしれません。
まずフェルミンに関して。
一応は彼自身も社会に翻弄されて、否が応にも不良連中と付き合うようなことになったり、後に闘争に身を投じなければならないようなそもそもの生まれでした。
映画を見たあとで知ったことですが、フェルミンが武術を習っていたのは実際にあった政府側の支援組織。1971年に学生運動を弾圧した際にも、フェルミンのような青年が暗躍していたようです。
しかしそういった周囲の環境や時代がどうとかよりも、人の資質としてそもそもフェルミンは子を宿したクレオをあっさりと見捨ててしまうような非道をやってのける男。
あまつさえクレオの方から出向くと脅しまでするというフェルミンの態度には、見ているこちらとしては嫌悪感しかありません。
「武術で救われた」と言っていたフェルミンが、暴動のシーンで再会した時のように結局は銃を握って暴力の世界でしか生きられないというのも、哀しいやら情けないやら・・・。
一方のアントニオの方は、これまた輪をかけて酷い。浮気現場として、はしゃぎながら映画館から出てきたシーンがあるぐらいで、実際になぜ彼が家族を半ば捨てるような決断に至ったのかが定かでないのです。
そもそもこの映画は監督アルフォンソ・キュアロンの当時の記憶、実際に育ててくれた家政婦との思い出が元になっている作品です。
父アントニオの浮気理由やその詳らかなドラマが決定的に欠落しているこのストーリー構成は、幼い子供から見た視点そのままです。
「なぜ父が出ていったのか分からない」という理不尽さを突きつけられるこの構成は、かえって生々しさが伝わります。
一家の父という存在への不信感、父になるはずの男に対する嫌悪感というものをこの映画から感じずにいられませんでした。なんなら彼らに対する監督の憎悪と言ってもいいくらい。
反面、このどうしようもなく信じることのできない男達と対峙するクレオやソフィアは、逆境の中でも力強く生きる、信じられる人々として描かれています。
特にクレオに対するその描写は特別、いやそれ以上に神聖なものです。
飛行機に運ばれる試練とクレオの神聖化
劇中で度々訪れる飛行機の存在。
この飛行機の読みとり方には諸説あるのですが、ここでは物語の構成と、先述した「父性への嫌悪感とクレオの神聖化」から考えてみたいと思います。
まず一度目の飛行機はオープニングです。先述したようにラストの海や、この先に幾度もやってくる飛行機を象徴的に登場させています。クレオの物語が始まることを告げています。
ここで個人的に注目したいのは、飛行機の重低音と水音のオーバーラップです。のちの海のシーンでは荒波の音と共に、強烈な低い風音の重低音が鳴り響いています。
飛行機の低い轟音それ自体が、クレオの劇中で最も困難な場面の象徴なのです。この後も登場する度にクレオに試練を運び、乗り越えさせていきます。
2回目は「幸せな30分」がマーチバンドの到来で終わった直後、クレオが玄関で犬の糞を掃除しているところ。
オープニングと同じく飛行機の低い音が鳴り響いたかと思うと、場面は切り替わって劇場のフランス映画「大進撃」内の戦闘機とオーバーラップします。
この劇場のシーンでクレオはフェルミンに子供をできたことを告げると、そのままフェルミンは消え去ってしまいます。本編中でのクレオの試練が本格的に姿を表します。
3回目は怪しいソベック先生によるヨガポーズ指導の最中。
精神が鍛えられた者しかできないというポーズを、身重でも難なくやってのけるクレオ。ある意味この時点で既に、劇中の人間よりひとつ抜けた存在として描かれているとも言えます。
この直後にはフェルミンから2度と近づくなと脅され、降りかかる試練の波は激しさを増していきます。
4回目はこの映画の最後のカットです。
子供の死産や海で溺れそうになった家族を助けたクレオは、ようやく一時の平穏を見出します。家の階段を登りきったあと、クレオが天に消えて、飛行機が空を横切ってく。
文字通りに天に登って神聖化を成したのと同時に、この空を見上げるというアングルは序盤での「死んだふりごっこ」も想起させて死の予感も漂わせます。
オープニングや終盤の海をはじめとして歩くクレオを追うカメラが左右移動を多用していたことが効いていて、ここぞのこの場面で縦の移動。しかも映し出される建物がほぼ全て斜めに傾いたような、違和感のある画面構成に鮮烈な印象を受けました。
直後、虚空にでる「パボへ」の字幕でクレオのモデルとなった家政婦さんへの哀悼のタイミングも見事としか言い様のない締め。
この表現一つとっても、いかにクレオという人物にこめられた想いが大きいのかがわかります。彼女の献身の神話化として申し分ない演出でした。
またここでの飛行機はクレオが消えたあとにもう一度訪れます。
家や近隣の生活音がなる中でやってくる飛行機は、時代や国境を越えて、普遍的に誰にでもやってくる人生の試練なのかもしれません。
まとめ
アルフォンソ・キュアロン監督の私小説と言っていい「ROMA」は、さながら文学のように行間に想いや祈りを散りばめた傑作でした。
計算し尽くされた情報量の引き算と、残った要素を使った見事な構築美に圧倒されてしまいました。
またそういう映画好き視点を抜きにして、物語一つだけでも見る人の読み取りと感受性に訴えかける内容でやはりすばらしい。
文句があるとすれば、これを映画館音響とスクリーンで見る機会がないというところでしょうか…。やはりオンデマンド視聴の音響などの限界は感じました。
とにかく必見の映画ですので、Netflixの無料体験に入るか、すでに入っている友達を取っ捕まえて2回3回と見るのがオススメでございます。
実はまだ見ていないキュアロン監督作品「ゼロ・グラビティ」。いい加減見ようと思います・・・。
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