原題:Star Wars: The Rise of Skywalker
上映時間:142分
監督:J・J・エイブラムス
キャスト:デイジー・リドリー アダム・ドライバー ジョン・ボイエガ オスカー・アイザック キャリー・フィッシャー など
あらすじ
「スター・ウォーズ」の新たな3部作としてスタートした「スター・ウォーズ フォースの覚醒」(2015)、「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」(17)に続く3部作の3作目。
「スター・ウォーズ」サーガのエピソード9にあたり、1977年のシリーズ1作目から計9作品を通して語られてきたスカイウォーカー家の物語が完結する。
「フォースの覚醒」を手がけたJ・J・エイブラムスが再びメガホンをとり、主人公のレイを演じるデイジー・リドリーほか、ジョン・ボイエガ、アダム・ドライバー、オスカー・アイザックら3部作の主要キャラクターを演じてきたキャストが集結。初期3部作の「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」(80)、「スター・ウォーズ ジェダイの帰還」(83)に登場した、ビリー・ディー・ウィリアムズ演じるランド・カルリジアンが再登場するほか、シリーズを通して重要な役割を担ってきた、16年12月に急逝したキャリー・フィッシャー演じるレイア・オーガナも、「フォースの覚醒」製作時に撮影されていたものの未使用だった映像を用いて登場する。
引用元:https://eiga.com/movie/87773/
12月20日 TOHOシネマズくずはモール にて字幕版を鑑賞 [ 70/100点 ]
劇場公開日に駆けつけて見た感想を綴ります。
結論から言うと、物語の部分ではとくに大きな感動を呼ぶことはなかったものの、製作者の苦心と叫びが垣間見えて、悪く言えない・・・どころか擁護したくなるような気持ちになってしまいました。
以下、鑑賞直後の所感を綴ります。
本記事はネタバレが含まれます。ご注意ください。
目次
「最後のジェダイ」への痛烈な批判とフォローの同居
本作を語る上でまず必定となるのが、前作エピソード8「最後のジェダイ」の存在であることはまず間違いないです。
少なくとも私としては、前作「最後のジェダイ」は奇をてらったサプライズ狙いばかりで物語構成はグダグダ。ローズとフィンの主軸の話と噛み合わない長すぎる無意味な珍道中や、レジスタンスなどに見られるキャラの不自然なおバカぶりはかなり低レベルな作劇だったと認識しています。
その目線で見ると今回の「スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け」は、明らかに前作「最後のジェダイ」に対する「批判」と取れる描写がありました。
それと同時に前作が特にひどかった「いま現代の娯楽作品の基準では看過できない作劇の下手さ」へのフォロー・・・言い換えると尻拭い的な作業が同居していたことも印象的でした。
具体的に更に言い換えると「スターウォーズの世界観に則しているように見せる言い訳の付与」とか、「前作のキャラの関係性を微修正する」などです。
そしてこのフォローはあくまでフォローであって、片手で批判をしながらも決して「無かったことにするわけではない」という一線は守っていたように見えました。これこそエピソード7「フォースの覚醒」以来に脚本・監督で再登板することとなったJ・J・エイブラムスを始めとした、創り手たちの矜持だったように思います。
「敬意を払え」 前作に対して示した回答
前作への「批判と取れるシーン」はいくつかありましたが、具体的にあげるとこのようになります。
「嫌な予感がする」 おきまりの復活
スターウォーズの正史とされるシリーズには全てあったおきまりのセリフ「嫌な予感がする(I have a bad feeling about this. )」を、今作で復活登場となったランドが言い放ちます。
前作「最後のジェダイ」にはかようなお決まりや設定などに対して、「踏襲する必要はない」「自由にやっても良い」という精神が刻まれた作品であり、メインテーマもそこにありました。「嫌な予感がする」というセリフも当然のようにありませんでしたね。
レイア役のキャリー・フィッシャーが急逝したこともあるかもしれませんが、歴代で最多の3回このセリフを喋ったハン・ソロの親友であり、旧三部作(エピソード4・5・6)の中で唯一生存しているメインキャラであるランドに託したのは気が利いています。
本作を監督したJ・J・エイブラムスのこれまでのフィルモグラフィーを見ても、このような古典からあるお決まりを捨て去るようなことはしませんでした。むしろ「現代に踏襲することが大事」という信条があるような監督です。
「敬意を払え」ルークにライトセーバーを拾わせる意味
J・J・エイブラムスが監督したエピソード7「フォースの覚醒」では、そのラストにルーク・スカイウォーカーが登場します。そしてレイが彼のライトセーバーを差し出して幕を閉じる。
メタ的に言えば当時、新3部作はすべて違う監督による作品になる予定で、しかも3部作の最終の着地点は全く決めていなかったそうです。さながらそのライトセーバーは次作へバトンのとも解釈できました。「頼むぞ」と。
それを引き継いだ「最後のジェダイ」ではあっさりとルークが捨ててしまう描写で始まります。この描写の解釈には賛否あり、「ルーク・スカイウォーカーがそういうことをするか?」などの議論を当時巻き起こしています。
しかし、今作ではこの議論に対して明確に一つの回答をしていることがとても興味深いです。
レイが恐怖心から炎の中にライトセーバーを投げ入れた瞬間、あのルークが受け止めたシーンです。その直後にこう言います。
「ジェダイの武器に敬意を払え」と。
このあともレイに対して「先人たちがついている」など、連綿と続いてきたサーガを感じさせるセリフを口にするのです。前作で真っ先にその遺産を捨て去ろうとし、ヨーダに叱られたあのルークというキャラクターが、です。
一人のキャラクターの整合性で言うと全くハチャメチャなのですが、これが「最後のジェダイ」に対する「スカイウォーカーの夜明け」の回答だとすると辻褄が合ってしまうのです。
ここでもう一度J・J・エイブラムスのフィルモグラフィーに立ち戻ると、例えば長編映画デビュー作の「ミッション・インポッシブル3」はトム・クルーズ演じるイーサン・ハントという絶対的主役だけの映画になりかけていた(実際2作目がそうだった)ところに、原作TVシリーズ「スパイ大作戦」にあるようなチームものの面白さへ回帰するアイデアに溢れています。
この「スパイ大作戦」風のチーム要素はその後の最新作「フォールアウト」へ続く3作まで受け継がれました。
あるいはこれもTVシリーズのリブートである「スター・トレック」も、ミスター・スポックを始めとした旧作キャラ・物語などを無かったことにすることはなく、むしろ踏襲した上で新しい物語を始めています(詳しくはネタバレになるので言えませんが・・・)。
スター・ウォーズとは「血脈の物語」である
前作で印象的だったメッセージとして「何者でもないものもジェダイになれる(orフォースはともにある)」という部分。特にレイの血筋について「何者でもない普通に捨てられた子」というお話は強調されていました。エンディングで名も知らない子供がフォースを使う描写があるなどメインテーマなのは明白です。
一言でいうと前作は「血脈=スカイウォーカーをめぐる物語ではない」との結論です。
ところが今回はパルパティーンの登場によって激変します。それどころか180°反対の結論へと至るのです。
パルパティーン登場については前作であっさりファースト・オーダーの親玉たるスノークを死なせてしまった苦肉の策という面もあると思います。
ただこれを、レイの祖父という設定に織り込んだことで「やはりスター・ウォーズは血脈を巡る話なのだ」と回帰するのです。加えて今回はやはりと言うべきか、レイアの血を受け継ぐカイロ・レンことベンの帰還も、主軸の話に合流していきます。
前作そのものの存在意義もゆらぎかねない方向転換ぶりですが、一応はフォローとして今作のフィンの存在がありました。前作からの大胆な修正とフォロー、ここが本作の巧みなところです。
「スカイウォーカーの夜明け」のフォロー ≒ 尻拭い
フィンが背負った「一般人にもフォースを扱える」設定
まず目についた大きな修正がやはりフィンでした。
前作の「フォースは誰にでも使える可能性がある」というテーマ性を主人公レイではなく、脇役のフィンへとスライドさせることに成功させました。
さらに物語の中盤、同じストーム・トルーパー出身の脱走兵もフォースを感じたことを匂わせてこの新設定を強化しているようでした。この結果前作で心あらぬファンからひどい中傷を受けたローズについてはあくまでも物語上の成り行きとして、裏方に徹底させる配慮にもなりました。
上記までにも言えることですが、前作のすべてを消し去るようなことはせず、やや無理筋であっても創意と工夫で継承してみせようという設定はそこかしこに見えます。
フォースチャットとカイロ・レンの物語の継承
前作で話題になった新しいフォースの機能フォースチャット。レイとカイロ・レンの二人が邂逅するという独自の設定でした。
本作で特に「一対のフォース」という部分が強調されて、作劇上の必然をもって工夫をしようという努力があったかと思います。
また親であるレイアもカイロ・レンに対して言葉を投げかけ、個人的にはこの3部作があって本当に良かった思える「ベンの帰還」にも一役買いました。
加えて殺陣のシーンではこのフォースチャットに「添付機能」までついて、物の受け渡しが可能になるという設定でラストバトルを彩るという大胆さ。
ダース・シディアス卿「パルパティーン」復活
フォースの機能追加で言えば、皇帝パルパティーン復活にまつわるものがこれでもかと加わってしまいました。先に書いたように血筋の物語を明確化するためにも、このレベルの大物とされる人物を復活させざるを得なかったのだと思います。正直いって苦しいところですが。
まずレイのヒーリング能力。これは完全にパルパティーンの不老不死にまつわる能力として付けざるを得なかったのでしょう。
この能力を補強するためにいきなり地底のクリーチャー相手に能力を披露するのもやや強引でしたが、のちにベンとレイの関係性にも絡めることでぎりぎりなんとかしている印象です。
そしてパルパティーン登場時はこの能力を「生命力を吸い取る」という方法で使用しています。ここまで来るとフォースって何だったのだろうと、さすがに思わざるを得ません・・・。
とはいえ「最後のジェダイ」で宇宙遊泳までやってのけた設定インフレに対する継承と言えなくはないです。ある意味開き直りだったのかも。「もうやれるだけやってしまえ!こうしないと収集つかないんだよ!終わらないんだよ!」と。
一言でいうと「やけくそ」ですね。
受け継ぐという闘いが「新3部作」のテーマとなった
「ここで諦めたら全てが無駄になる!」
絶望の淵に立たされるレジスタンス軍。その中でもポー・ダメロンを始めとして「ここで諦めたら、やってきたこと全てが無駄になる!」というセリフがニュアンスを変えて幾度か登場しています。
またランドがその姿を表したとき「孤立している、と思わせるのが敵の戦略」というセリフからの、ラストで援軍を引き連れて登場するシーン。
レジスタンス軍のみならず、パルパティーンに瀕死になるまで追い詰められたレイが立ち上がるときもフォースと一体化した歴代ジェダイが「共にいる」と鼓舞します。
このように本作は何かにつけ「ボロボロで孤立しているけど、まだ諦めたくない!」という叫びが多い作品です。私はこのあたりのセリフは全て、本作エピソード9に関わった作り手の代弁のように聞こえました。
ここまで書いてきたこと、そして書ききれないことも含めて貴重な142分の上映時間のうち半分が、何かしら「前作の尻拭い」に当てられているような気がしてしまいます。
「最後のジェダイ」はもちろんながら、新キャラを立てたものの謎ばかりを残して体よく終えた「フォースの覚醒」の報いをも一身に受けたのが「スカイウォーカーの夜明け」です。当然ながらこれまでの2作で、多くのファンからの理性的な批判はもちろんのこと、中傷まがいの妨害も受けたことは容易に想像できます。
そんな中でも今作を引き受け、旧作から新作までのできる限りの設定をしっかり拾い、完結へ導いた苦闘には称賛があってよいと私は感じました。
手放しには全く褒められる出来ではないです。設定を拾うと体よくいっても、ファンサービス過剰感は鼻白むところも見受けられました。
そんな勝算が少ない状況にあっても、実際に作り上げた人達がいる。集うクリエイター達がいるという点には希望が持てました。
少なくとも公には全く「最後のジェダイ」を批判してこなかったはずの監督J・J・エイブラムスが、新3部作のあり方についての総括や批判的なメッセージをあくまで作品の中で展開し、作品として昇華した手腕には脱帽しました。
いま「スター・ウォーズ」をやる意味はあったのか?
ここまで述べて、あくまで個人的な意見としてですが・・・。
今回までのスター・ウォーズ新3部作「フォースの覚醒」「最後のジェダイ」「スカイウォーカーの夜明け」はやる意味はあったと確信しています。
私事ながら嫁さんakaムービニアンズイラスト担当に、スピンオフの「ハン・ソロ」公開前まで順に「スター・ウォーズ」をプロデュースして、今回のエピソード9も公開初日に映画館で観るという経験はこの新3部作+スピンオフ映画がなければありませんでした。
更に加えて言うならば、その嫁さんの隣に座っていた一人で観に来ていた女子高生も泣きながら本作を見ていたようです。
創造者ジョージ・ルーカスが制作を去っても、この長い伝説を語り継ぐ意味はあったのでは無いかと思います。ラストシーンにて血の繋がっていないレイがスカイウォーカーを名乗り、血筋を越えてその精神性こそを血脈として受け継ぐ今作オチはそれを体現したものだと思います。
とりあえず本作に携わったクリエイター&次の「スター・ウォーズ」を担うクリエイター達は、「チューバッカが死んでしまった!」というどうでもいいトリックで泣いてしまったらしい先の女子高生に謝ってから、次の「スター・ウォーズ」作品に取り組んでください。
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